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『夜が明けたら』 ― 物書きの独り言13 [エッセイ]

           『夜が明けたら』 

この話は、mixiブログで展開している「物書きの独り言」と称するシリーズ読み物の中のエッセイ5連作の第一話です。1967年辺りから1970年代前半にかけ、20歳になったばかりの一美大生であった私が、文化人たちがたむろすることで有名だった新宿ゴールデン街片隅にあったバラック酒場「もんきゅ」でアルバイトをしていたころ。見聞きしたさまざまな人々の、さまざまな人生模様について語ってみたもの。アングラ全盛当時に寺山修司に見出され、一世を風靡した、浅川マキという歌手をご存知の方も、ご存知でない方も、あの頃の熱い日本に心を馳せてくださると幸いです。お読みになったあなたの感想をぜひお聞かせください。     

                                                  

                          
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(初めて読む方たちへ)
この作品に登場する人々は、ほとんどは実在した方々。 彼らと共に過ごした時間のあれこれは、こうやって振り返らない限り、記憶の底にいまも埋もれ続けていたでしょう。昔の酒場には、金が仇の今の世には望むべくも無い、ぶ厚い”義理人情”ってやつがあったような気がします。
初回の今夜は、私がアルバイトをしていたバー”もんきゅ”のプロフィールと、店主シュンさんとの出会いのあれこれ、高度成長期に突入し始めた時代の背景などに触れていきましょう。
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昔々、新宿ゴールデン街に、「もんきゅ」という小さな酒場があった・・・・・。

仏語で“可愛いお尻”という名前のこの酒場は、八番街と呼ばれる通りの中ほどに位置し、人一人やっと上れるくらい狭く、垂直に近い危険な階段を昇った2階にある、3坪あるかなしかの小さな店だった。

1960年代後半のゴールデン街は、新聞記者、雑誌記者、作家、役者、映画監督、演出家、詩人、デザイナー、カメラマン、などなど、有名無名取りまぜた、いわゆる文化人達のたまり場で。

彼らは一箇所に200近い安酒場が群がるこの街を一軒づつハシゴして飲み歩き、あちらこちらで談論風発、大酒を酌み交わしながら夜を徹して文学や芸術、政治について語り合う。
ゴールデン街で飲み明かし、そのまま仕事に行って、夜また帰ってくる、なんて男達はザラに居て。

「もんきゅ」もまた、そういう男達の夜の集会所のひとつだった。

私はそのころやっと20歳になったばかり。
大学の友人に連れて行かれたのがきっかけで、生意気盛りの小娘だった私は、知的で無頼な大人たちが群がるこの店とこの街にどっぷりとハマり、ゲイのママやホステスさんや、いろんな文化人の方達に可愛がられながら、“背伸び”というやつを覚えていった。

戦後”青線”と呼ばれる売春地帯だった、新宿・花園にあるゴールデン街の、マッチ箱のようなバラック酒場に、面白半分で出入りしていた20歳のころ。
そこで見聞きしたちょっと風変わりな話のあれこれを、これから暫く書いていってみようと思っている。


■浅川マキの唄         

「もんきゅ」店主のシュンさんは、バー経営をしつつ、三島由紀夫が主宰する「浪漫劇場」という劇団に所属する俳優でもあった。
年齢は、30代後半ぐらいだったか。
背はそんなに高くないが、よく動く大きな目と、鼻下から頬、顎にかけて蓄えた、ロシア人のような、短い真っ黒な髭がよく似合う、シブい、好い男だった。
そして、こういう酒場のマスターらしく、ひどく無口で。
何年も通ってきてる、という常連たちでさえ誰も、マスターの過去は知らなかった。

「浅川マキ」という歌手を教えてくれたのは、そんな常連客の中でも特に酒癖の悪い、某有名週間誌の酔っ払い記者、”薔薇のトミー”。
トミーは真夜中、必ずぐでんぐでんに酔っ払ってやってくる。
もんきゅの傾いだスツールに辛うじて腰を落とすなり、大声で叫ぶ。
「マキをかけてくれ!」

シュンさんはしぶしぶ、好んでかけていた「M・J・Q」のレコードをターンテーブルから外し、カウンター脇にずらりと並ぶLPの中から、手摺れした一枚を抜き出して、静かに針を落とした。

と、濛々たるタバコの煙と、ワイン以外の全ての酒の匂いと、働き盛りの男たちの体臭・・・・・が入り混じって淀んだ安酒場の空気を、一層濃くするような、ブルース独特のかすれた旋律が流れ始め・・・・・。
そして奇妙な事が起きる。
それまで大声出して騒ぎ、掴みかからんばかりに口論していた男たちがいっせいに口を噤み、シン、と静まり返るのだ。


『夜が明けたら』

(セリフ)夜が明けたら一番早い汽車に乗るから
夜が明けたら一番早い汽車に乗るのよ
夜が明けたら 夜が明けたら

夜が明けたら 一番早い汽車に乗るから
切符を用意してちょうだい
私のために 一枚でいいからさ
今夜でこの街ともさよならね
わりといい街だったけどね

夜が明けたら 一番早い汽車に乗って
いつかうわさに聞いたあの街へ
あの街へ行くのよ
いい人ができるかもしれないし
ンーあの街へ行くのよ

夜が明けたら 一番早い汽車に乗るわ
みんな私に云うの
そろそろ落ち着きなってね
だけどだけども人生は長いじゃない
そう あの街はきっといいよ

夜が明けたら 一番早い汽車に乗るから
切符を用意してちようだい
本当 本当よ 一枚でいいのよ
いつだって身軽な私じゃない
そう・・・・乗るのよ

夜が明けたら 夜が明けたら
そう 夜が明けたら
夜が明けたら 夜が明けたら

浅川マキ作詩/作曲(注:作詞ではなく「作詩」は彼女の主張)
(1969年7月1日東芝音楽工業・現EMIより発売)

この唄は1968年、寺山修司に見出された浅川マキ(当時26才)が、新宿のアンダーグラウンド・シアター「蠍座」で、初のワンマン公演を                                          3日間にわたり催行、その後次第に口コミで広がっていった、とされている。

都会の夏の、真夜中の霧雨のような、気だるいメロディを、お聞かせできないのがとても残念・・・・。

浅川マキという歌手の唄には、激動する世の中を駆け巡り、夜を徹して仕事をするジャーナリストや文士達の、激辛の口を噤ませ、世間知らずの小娘の無知な目をも瞠らせる強烈なオーラと、何より威厳が、あったように思う。

初めて触れた浅川マキの唄の中でも、私が最も惹かれたのは、「かもめ」という、まるで一本の恋愛小説のように切なく、エロティックな内容の歌詞を持つ歌だった。
こちらはY―TUBUに公開されていたので、メロディと共にご紹介しよう。

『かもめ』 作詩/作曲 浅川マキ
http://jp.youtube.com/watch?v=Ms7rSLS7n2s (←クリックを)

おいらが恋した女は 
港町のあばずれいつも
ドアを開けたままで着替えして 
男たちの気を惹く浮気女
かもめ かもめ 笑っておくれ

おいらは文無し 惑ろって
薔薇買う銭もない だから 
ドアの前を行ったり来たりしても 
恋した女にゃ手もでない
かもめ かもめ 笑っておくれ

ところがある夜突然 
成り上がりの男がひとり 
薔薇を両手いっぱい抱きかかえて 
ほろ酔いで女のドアを叩いた
かもめ かもめ 笑っておくれ

女のまくら元にゃ薔薇の 
花が匂って二人 
抱き合ってベッドに居るのかと思うと 
おいらの心は真っ暗くら
かもめ かもめ 笑っておくれ

おいらは恋した女の 
安宿に飛び込んで不意に 
ジャックナイフを振りかざして 
女の胸に赤い薔薇の贈り物
かもめ かもめ かもめ かもめ・・・・
 

男と女の間にある、殺しあうほどに狂おしい想いの意味などまだ知らなかった私の胸に、浅川マキの唄は、ゴッホやベルメールの絵のような、強烈なパンチを叩き込んだ。
そしてもうひとつ。
私がいまも繰り返し口ずさむ、こんな唄もある。

『ふしあわせという名の猫』

ふしあわせという名の猫がいる
いつも 私のそばに
ぴったり 寄り添っている

ふしあわせという名の猫がいる
だから 私は いつも
ひとりぽっちじゃない

この次 春が来たなら
むかえに来ると言った
あの人の嘘つき
もう春なんて来やしない
来やしない

ふしあわせという名の猫がいる
いつも 私のそばに
ぴったり 寄り添っている

どこかのベンチに並んで座って、どこか遠くを見つめて、そっぽを向くように歌う彼女の歌が、そのころ両親と上手くいっていなかった私の耳に、まるで「わかってるわよ。でもさ、人生なんてそんなものよ」と言っているように聞こえたものだ。

☆浅川マキさんのオフィシャル・サイト
http://www.emimusic.jp/asakawa/main.htm

■激動期の1960年代

振り返ってみれば1960年代というのは、日本にとって大変な激動期の始まりの年代だったように思う。

東京タワーはこの前々年、1958年に出来ていたが、60年に入ってベトナム戦争が始まり、この戦争による特需景気で、日本は大変な高度成長期に突入する。

年頭にはフランスで初の核実験が成功し、カラーテレビの本放送が開始され、アントニオ猪木とジャイアント馬場がデビュー。
ソ連のボストーク2号が人類初の有人宇宙飛行を成功させ、大相撲では大鵬と柏戸が二人同時の横綱に昇進して柏鵬時代の幕が切って落とされ、日米安保条約改定が発効した。

62年には日本初のテレビアニメ「鉄腕アトム」が放送を開始し、ケネディ暗殺事件が起こり、チビっ子たちのヒーローだったプロレスラーの力道山が、暴力団員に刺されて死んだ。

64年には東海道新幹線が開通。
東京オリンピックが開催され、ジャイアンツの王貞治選手が年間55本の、史上最多ホームラン記録を樹立。

65年、米国が北ベトナムを爆撃し、日本の安保闘争は次第にエスカレートしていく。 
過激な学生運動が頻繁にニュース画面を賑わし、大学に入ったばかりの私の周りでも、大学闘争が激化していった。
しかし一方でミニ・スカートやアイビー・ファッションがブームになり、フォーク・ソングが流行し、平凡パンチやアンアン、ノンノといった週間誌やファッション誌の創刊ブームが巻き起こっている。

都電銀座線が廃止になり、霞ヶ関に日本初の超高層ビルが出現、日本中あちこちで公害問題が起き、68年には三億円事件も勃発して。

戦後15年たって、世の中は、他国の戦争による好景気に沸きかえり、アジア初のオリンピック開催に向けて、国中が全力疾走し始めていた。
何もかもが初めて、あれにもこれにも”日本初”という冠がついたような時代。

私の青春は、まるで洗濯機の中にいるようにめまぐるしく移り変わる、こんな時代の渦の、真っ只中で始まった。

新宿ゴールデン街。
八番街と呼ばれる通りに乱立する、バラック酒場と呼ばれる酒場たちは、今でも現存している。
http://www.hanakin-st.net/ (新宿・花園ゴールデン街のホームページ)

そのひとつだった、小さな酒場『もんきゅ』。
ここであったさまざまな出来事を、個人的ながら、これから五夜にわたってお話ししていこうと思う。


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